◆狸牛/pray
灰色に染まった空から、冷たい雨が降ってくる。
冷え切った体も、弱まる気配のない雨音も、どうでもいい。
『早く行け』
いくら目を凝らしても、雨にけぶる一本道に浮かぶ人影は見えない。
『必ず戻るから』
大丈夫、絶対に戻ってくる。
散々心配した人の気も知らないで、また笑って、軽口を叩くんだ。
『大丈夫』
そう言って浮かべた笑顔は、泣きたくなるくらいに普段と同じで。
残ればよかった。
おれが、あの場に留まればよかった。
おれとラク先生、それからイプ。
他の皆は外出中で、残った3人でちょっと遠い村まで行ってみようかって事になった。
先に進むのが難しそうな時はすぐに帰れるように、転送用の携帯を皆で買って。
攻撃専門のおれと、防御系に優れる先生と、回復の得意なイプ。
目的地に続く道を闊歩する敵は強かったけれど、充分に余力を残したまま、道のりの半分ほどを通過した。
突然走った、妙な喪失感。先生もイプも不思議そうな顔をして、3人で目を見合わせた。
パーティーを組んでると、なんとなく感覚で仲間の大雑把な位置を把握できる。
それが途絶えているんだと気付いて、島のシステムとの媒介である左腕の結晶に触れた。
―起動しない。
「動きませんの…」
「故障か?厄介だな…携帯も取り出せないし、とにかく安全区域まで戻るか」
「うん…すぐに直るといいんだけど」
腕の結晶が動かないってことは、アイテムの出し入れも遠距離通信もできないってことだ。
もしかすると、所有者の危険を察知して自動的に安全を確保するシステムも、動かないかもしれない。
道の狭まった場所に、大型の魔物が陣取ってる。なるべく戦いたくないけど、倒さないと戻れないか。
先生が魔力の盾を形成して、防御体勢に入った。
先生が盾で攻撃を受け止めて、その隙におれが攻撃、イプはイザという時に回復や補助魔法で援護…
それぞれ一長一短なこのメンバーの定石は、すっかり身に染み付いてる。
「―うおっ!?」
魔物の攻撃を受け止めた先生の盾は、一瞬で砕け散った。その反動で、先生の体勢が僅かに崩れる。
気を引く為に魔物に打ち込んだ蹴りの感触が、先刻までとは格段に違う。
…予想してたより、もっとずっと深刻な状況かもしれない。
体勢を立て直した先生が、カードを構えながら呻いた。
「どうなってるんだ?何気にパワーアップしてませんか、あの魔物さん」
「島のシステムが、無効になってるのかも。魔物の能力も相当下げてただろうから」
「システム無効って…つまりアレか、戦闘不能判定も無効か?」
「自己治癒力や携帯の転送機能も…手持ちのアイテムは?」
「カードはそこそこあるけど、回復系はほとんど結晶管理…イプは?」
「マナポーションなら、ポシェットに少し…」
不安そうに言って、イプはずっと持っている本をぎゅっと抱きしめた。
「…マズいな。隠れられそうな場所があればいいんだが」
「とにかく、アレ何とかしないと。聴覚や嗅覚が復活してるなら、撒くのは難しいだろうから」
留め金を外して、剣を抜いた。普段はあまり使わないけれど、
道に迷って強敵がいる場所に入っちゃった時の為に、たいがい持ち歩いてる。
魔力を消耗し過ぎると、動きにも影響が出る。ロクに回復できない以上、魔力を乗せる技の多用は危ない。
「先生もイプも、下がってて。飛び道具を使う敵が出たら、先生のカードが頼りだから」
「…状況が状況だもんな。不服だけどお任せしましょ」
こんな状況でも先生の声は普段と変わらなくて、苦笑しながら安心した。
来た道を戻り始めて、三時間。来た時の倍はかかってる。
新たな魔物が沸く速度は不定で、ついでに種類も不定だから慎重に進まざるをえない。
「大丈夫?」
「は、はい…大丈夫ですの…」
イプは笑顔を浮かべたけど、疲労の色が濃い。隠そうとしてるけど、先生も。
長時間神経を張り詰めてる上に、アイテムが底を付いてからしばらく経ってる。無理もない。
相当な数の魔物を斬り続けてきた腕と剣が、悲鳴を上げてる。
「もう少しで安全区域だったよな。そこがダメだったら、戻ることより隠れること考えるか?」
「そうだね…侵入防止の結界だから、大丈夫だとは思うけど」
「あ…出口ですのー」
ようやく安全区域との境にあるゲートが見えてきて、ほっとしたようにイプが笑った。
敵は見当たらないし、結界が消えてなければ、もう大丈夫だろう。
そう思った矢先に、目の端に魔方陣が浮かび上がる。
魔物が現れる兆候、とっさに魔方陣のすぐ傍に居たイプの腕を引き寄せた。
「きゃあっ!」
血のにおい。右足、イプの空色のスカートが黒く染まる。
再び振り下ろされた魔物の鋭利な刃物を、先生が魔力の盾で受け流した。
「ファー、イプと行け!」
おれにしがみ付いたイプの手は、痛みと恐怖の為か、小刻みに震えてる。
おれや先生の傷を治し続けてきたから、イプの魔力はほとんど残っていない。
イプの足の傷を縛った応急用の清潔な布は、見る間に紅く染まっていく。きちんと手当てしないと、危ない。
「先生がイプと行って。先生一人じゃ―」
この魔物は倒せない。おれが残った方が、まだマシだ。
砕かれると同時に新たな盾を形成して、先生の声が笑った。
「オレじゃロクな手当て出来ないから、お前が一緒に行ったほうがいいだろ。
お前たちが安全区域に入ったのを確認したら、オレも一目散に走って逃げるし」
先生だって、魔力は尽きかけてる。いくら防御能力が高くても、魔力が尽きたら。
「早く行け」
先生が、少しだけ振り返る。
「必ず戻るから」
いつもと同じ笑顔。息がうまくできない。
「…戻らなかったら、殴るからな」
「ははは。戻ったら、優しく抱きしめてくれよ?」
こんな時まで。
抱き上げたイプが、苦痛に顔を歪ませながら、それでも不安そうに先生を見上げた。
「ラク先生…」
「大丈夫。早く行きなさい」
先生の声は、普段と変わらない。
安全区域までの道には、今は魔物は見当たらない。
「イプ、ごめん。ちょっと我慢してね」
行く先に魔物が湧いたら危ない。傷に響くかもしれないけど、急がないと。
先生の盾が攻撃を受け流す音を背後に、なるべくイプの傷に障らないように気をつけながら、
安全区域に向かって走った。
魔物の侵入を阻むこの島の結界は、基本的に内側からは外が、外からは内側が見えない。音も通らない。
水面のように揺らぐ結界に包まれた広場には、人の姿は無かった。
広場の片隅に立つスピーカーだけが、静かに同じ言葉を繰り返している。
『島内のシステムに不具合が起きております。無効となっているシステムは、結晶石の自動安全確保、
物質転送、通信系統、治癒能力促進、全魔物の弱体化。
各安全区域、一般生活区域の結界に問題はありません。結界内から出ませんよう、ご協力ください。
現在ハンターが各地に移動中、安全区域外へ外出中の方の情報は、ハンターまでご連絡ください。
繰り返します…』
柔らかい芝生の上にイプを下ろして、持ち歩いてる応急セットを取り出した。
本当なら縫合した方がいいけれど、麻酔が無いし、手持ちの道具でもとりあえず出血は止められる。
消毒をして、血止めの薬を染み込ませた膏薬を二重に貼って、包帯を巻いた。
「…はい、終わり。あまり動かなければ、これで大丈夫。痛む?」
「少し…でも平気です。ファルさんは、ラク先生のところに…」
そう言うイプの目は、焦燥と不安の影に、ほんの少しだけ心細そうな色を浮かべてる。
応急セットを片付けて、おれはイプの隣に座った。
この非常事態にそんな事があるとは思いたくないけど、問題行動を起こす人はこの島にもいる。
攻撃魔法が使えない上に動けないイプを、たった一人で人気のない場所に残すのは…ちょっと危ない。
キャンプが張れれば侵入制限もできるけど、腕の結晶は相変わらず反応しない。
「じきにハンターも着くだろうし、先生ならたぶん大丈夫だから」
イプの瞳が涙を浮かべて、悲しげに歪む。
「…ごめんなさい…私…足を引っ張ってばかりで…それなのに、今…私、少し安心して…」
「こんな状況だもの、誰でも一人は心細いよ。それにイプがいたから、ここまで戻ってこられたんだよ?
ほら、先生って逃げ足すごーく速いし。すぐヘラヘラして戻ってくるって」
そう、きっと大丈夫だ。先生の防御能力はヘタなハンターより上だし、判断力もある。
後先考えずに無茶をするタイプでもないし、こっちに来られないようなら、どこかに隠れてやり過ごすハズだ。
この島にどれくらいハンターが居るかは知らないけど、ギルドのあるそれぞれの町や村から派遣されるなら、
それほど掛からないうちにここにも着くだろう。
「他の皆は大丈夫かな…ライオは発明コンクールに参加するって言ってたけど」
「フォウ先生は研究道具のお買い物に行くって言ってましたの。ラヴィさんが心配ですが…」
「あ、リュウがラヴィとキャーに護衛頼まれたって言ってた。リュウがいるなら心配ないかな」
「そうですね…」
水面のような結界の内と外を隔てる表面は、動かない。
大丈夫。大丈夫。大丈夫。祈りのように、それだけが頭の中で何度も繰り返される。
それからしばらくして、島の管理側が手配したハンターが現れて、
イプは簡易的な移動システムで医療施設のあるホテルに一足先に移送された。
ハンターたちは何度も先生がいるハズの区域を往復したけれど、先生は戻ってこなかった。
雨にけぶる一本道は、島の管理側が救助した人たちを一時的に収容しているキャンプに通じてる。
いくら目を凝らしても、道に浮かぶはずの人影は見えない。
雨は止む気配がない。
先生は寒くないかな。ちゃんと保護されたよね。
隠れるのが上手すぎて、まだ見付けてもらえてなかったりして。
おれも聞かれたし、管理側にあの区域の詳しい話でも聞かれてるのかもしれない。
綺麗な女の人でもみつけて、口説いてるのかも。
さすがに疲れて、連絡も忘れて寝てるとか。
そんな事を考えながら、だけど知ってる。
自分やその近くに居る人だけは絶対大丈夫だなんて、単なる楽観的な幻想だ。
悲しい出来事は、誰の上にも、どうしようもなく降り落ちる。
花壇を囲む石に座って、膝を抱えた。雨は止まない。人影は見えない。
無理矢理にでも、おれが残ればよかったんだ。
応急セットを渡して、先生とイプを先に行かせるべきだったんだ。
抱えた膝に顔を埋めて、無意味に繰り返す。
雨音。その中にかすかな足音が混じるよう、祈るような気持ちで耳を澄ます。
傘が雨を弾く音。肌に落ちる雫が、ふと止んだ。
「風邪引くぞ?」
「…遅いよ…」
「ヒーローは遅れて登場してこそ、だろ」
いつもの声。
涙が溢れる目を、雨に濡れた膝に擦り付ける。
頭を撫でた温かい手が、俯いたままのおれの頬を包んだ。
「こんなに冷やして…いつからここに居たんですか、まったく」
誰のせいですか。
反論したいのに、喉が詰まって声が出ない。
「いやぁ、参ったよ。魔物を隠れてやり過ごしたら、救助部隊までやり過ごしちゃってさぁ」
「…ケガは?」
「無傷。お前らは大丈夫だったか?」
「うん…イプは治療受けて、今はホテルに戻ってる」
「オレたちも戻るか。体温めないと、ホントに風邪…あ、もしかして先生に看病されたいのかな?…お?」
おれはびしょ濡れで、抱きついたら先生まで濡れちゃう。分かってたけど、体が勝手に動いた。
抱きついた体は、ちゃんと温かい。
「心配…させたな」
きつく抱きしめてくれる腕も、低く囁くちょっと笑った声も、額から頬へと辿るように落とされるキスも、
いつもと同じで…涌き上がる安堵感に泣きたくなった。
「どうした?先生の胸で泣くか?」
「…先生と会ってから、涙腺が弱くなった気がする。先生のせいだ」
「愛だねぇ。んじゃ、ホテル戻ってシャワー浴びて、続きはベッドでゆっくり…」
「…先生の頭の中、そればっかり?というより、それだけ?」
「ほら、先生若いし。そもそもはファーが可愛いのが悪い、責任とれ。勅命」
「…無事で、よかった…」
雨はまだ止まないけど、もうこんなにも温かい。
無言で優しく肩を撫でる手に、どうしようもなく涙が溢れて、先生のシャツに顔を埋めた。
久々に切羽詰った(つもり)話をば。
重すぎ…ですかね;
2007.7.